話せる相手がいるというだけのセーフティーネットを考える

私自身、お金を払って「話し相手」を求めると言う事には、
まだ半信半疑で抵抗がある部分があります。
それでもこのサイトでサービスを始めようと思ったのは、
実は地域の過疎化と高齢者の孤立の問題に接する機会があったからでした。
いまサービスを始めるスタート地点で、感じている想いを書かせて頂きます。

 

話せる・頼める相手がいるというだけのセーフティーネットの形

過疎の地域などで高齢者が孤立してしまうという問題は、
どこにでもあるものだと思います。
私自身が住んでいる地域でも同じような問題が話題になったりもしています。

結構切実な問題だと思っています。

身の回りの地域で起こっている高齢化問題はありますが、
私は、身寄りがない高齢者の孤立が必ずしも悪いものだとは思っていません。

孤立ではなく、気兼ねなくゆったり暮らす生き方もいいと思う

外から見て「孤立」して見えてしまう高齢者の方が、
それだけで不幸せなのでしょうか。
私はそうは感じません。

私自身が元々一人で過ごす時間が好きなタイプでもあって、
毎日「誰かと一緒に過ごす」ような、
賑やかな生活を望んでいるわけでもありませんし、

誰にも気兼ねすることなくゆっくり一日を、
パジャマで過ごせる生活も悪くないなと思ったりもします。

雑踏を避け、山に移り住む第二の人生

以前、勤務していた会社の上司は常に言っていました。

「退職したら山奥に住む」と。

誰にも会わずに自給自足でのんびり暮らしたいと。
そして現在、そうやって暮らされているようです。(年賀状より)

一線を退き、やっとゆっくり過ごせるようになったと言うのに、
自治会や地域の人が頻繁に、

「大丈夫か?」

「家族はいないのか?」

そんな風に余計な心配をされたら、ちょっと面倒くさくはないでしょうか。
私だったら面倒くさい。

地域側も「孤独死されても困る・・・」などの事情もあるでしょう。

でもね「一人でひっそり穏やかに息を引き取る」
そんな自由があってもいいじゃないですか。

周囲の心配やあれこれはあるとは思いますけど、
犬や猫など動物は自分の死期が近いと知った時、
一目を避けて、一人に慣れる場所を探して、じっとその時を待つものです。

人間だって、その時をしっかり心に覚悟して、
余生を全うする人生も一つだと思うのです。

自分だったら「お父さーん!しっかり!」と、
外野にわーわー言われながら死にたくはないし、
眠るように(苦しくても)そのまま逝かせて欲しいと思います。

 

ですので「一人暮らし=孤独」というのは少し違うように思います。

でも、社会的には「一人暮らしの高齢者=孤独」という、
見方、視線が注がれてしまっている過度な干渉は、
決して、本人の目線では考えれていないように思うのです。

 

だけど、人は誰かに助けてもらいながら生きていくもの。

全てを自分でやるのはやっぱり無理があるものです。
そんな時「ちょっと金やるから手伝ってよ」

それでいいと思うんですよね。

相手がそれを望むなら。